今村 樹憲 師範(公益財団法人合気会 七段位)
Tatsunori Imamura
『 すべてひとつ 』 ―いのちの合気―
合気道は久遠のいのちの道
人類を家族のように思う道
幸せと平和の祈りを拓く道
開祖植芝盛平翁の道歌
~いき生命めぐり栄ゆる世の仕組み 魂の合気は天之浮橋~
世界人類が平和でありますように。
May Peace Prevail On Earth.

今村師範は、1965年春より本部道場及び本部直轄の新橋道場にて合気道を始め、翌年埼玉大学合気道部を創設し、初代部長として合気道の心技を切磋琢磨し、また後輩の育成にもご尽力されました。
1992年には、ロシア・シベリア地区にて合気道の指導及び組織作りの支援を開始、1993年7月に(旧)北海道国際合気道協会設立(2013年に合氣道国際平和文化交流倶楽部に名称変更)。今村師範が創設時より会長に就任し今日に至っております。
その活動は、北海道内のみならず国内、そして北海道と縁のある世界の国々の合気道関係団体や道場と相互に交流・協力、そして指導等を通じて、合気道の健全な普及・発展を図り、世界の平和・文化・友好に寄与することを目的としています。
現在北海道内ではA&P合氣道平和塾、北海道家庭学校、白滝合気会自由の森道場、滝川合気会、様似合気会などの道場・団体で指導を行っています。 また、国内でも高知、明徳義塾、関西、東海、関東地域で年数回、 更に海外ではロシア各地(モスクワ、ノボシビルスク、ハバロフスク、ウラジオストク、コムサモルスク・ナ・アムール、シベリアのバルナウール等)、ヨーロッパ(オーストリア、ウクライナ、リトアニア、ポーランド、ハンガリー、チェコ等)からの 招聘により年数回程度海外での合気道の指導・普及に尽力してきました。また、2012年より、アメリカ各地で指導者向けのセミナーを開催しています。
師範プロフィール/経歴
- 1946年(昭和21年)
自然も豊かな、城下町金沢生まれ。日本の戦後復興・高度成長とともに、揉まれて学び、東京で育つ。 - 1965年(昭和40年)
不思議な思い込みで、くぐってしまった、合氣の門。一度も稽古を見ずして、本部道場入門。 - 1966年(昭和41年)
道主の後押し頂いて、大学に合気道部を創設。OBは600人超え、今も現役シニアOB健在なり。 - 1969年(昭和44年)
明快な決断? アメリカ行きのお誘い辞して、両足で歩む道を選ぶ。武人として社会人として。 - 1980年(昭和55年)
すべてを捨て、北海道に移住。自分と向き合い、未知の人生、開拓ドラマの中で鍛えられる。 - 1992年(平成 4年)
ロシア公式訪問で合気道を実演。これがロシア各地への普及、世界各地との縁にもつながった。 - 1993年(平成 5年)
国内外との深い交流を目指して、AIPACEC創設。合気道の技の基本、開祖の平和の心を大切に、活動始める。 - 2000年(平成12年)
健康、教育、国際交流など、各種団体との連携を深めた。合気道の新たな可能性を見出す。 - 2001年(平成13年)
ロシアからリトアニアへ、さらにヨーロッパ、東欧へ、交流が拡大。心といのちの絆、大切にしながら。 - 2008年(平成20年)
リスク覚悟で、混迷深まりゆくウクライナへ。戦禍の中、平和の祈りを込めて、今も稽古は続いている。 - 2016年(平成28年)
アメリカ各地へ、すべて一つの交流始まる。技を磨き、印を組み、日常の楽しみも、みんなで一緒に。 - 2019年(令和元年)
ズーム稽古を開始。自宅で、普段着、気軽に参加。たのしく健康づくり、いのち新鮮合気道にクリックオン。 - 2022年(令和 4年)
あらためて開祖の合気道の精神に立ち返る。技を磨き、心を磨き、ともに平和を祈りながら。
大切と思えるメッセージを、このプロフィールに、動画に乗せて、今も世界に発信中。シンプルに、わかりやすく、熱いこころを注ぎつつ。もっと、もっともっと。
~プロフィールの詳細~
1.1946年(昭和21年)
城下町金沢で生まれ、戦後の復興ともに東京で育つ。
2024年(令和6年)1月1日午後4時過ぎ、私の故郷である石川県の能登半島地域で、大きな地震が発生しました。被災地では、復旧・復興に向けた取り組みが、今もなお続いております。被災しお亡くなりになられた方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。そして、大変なご苦労の中でお過ごしになられている被災者の皆様に、一日も早く日常生活が戻られることを、切に願っております。復旧•復興にご支援をくださっている国内外の多くの皆さまに、深く感謝申し上げます。
話は私の故郷の思い出に戻ります。(ここからは、「である調」で表現します。)
金沢に実家が2つあった。一つは街のど真ん中。城下町の小路には、商店や職人さんの仕事場が、和気あいあいと軒を並べて、ご近所さんは仲良しだった。もう一つは、田舎の農村地域。田んぼのあぜ道にこんこんと湧き出る、冷涼な水の味が、今でも忘れられない。ところてんの味と一緒に。ドジョウすくいの追い込みも。
父の祖父母は、毎朝欠かさず、熱心にお経をあげていた。おばあちゃんは、「ありがとう」と「もったいしゃあ」(もったいない)の言葉を繰り返した。そして何故か私を、特別に大事にしてくれた。今も、私のそばにいる? 眼には見えない笑顔がみえる…ような。
幼少期、まだ戦争による破壊と混乱の傷あとが残る東京へ移住。奇跡と言われる戦後の復旧・復興と共に、自分たちも成長していった。貧しいながらも、心を合わせ、互いに助け合い、時にはぶつかりながらも、日本に生まれ育ったことを、今では心から幸せに感じている。
両親のお陰で今がある。父母の子供愛が今頃身に沁みている。戦後、私の父や母、そして周囲の大人たちは無心に働き続けた。働きバチ、働きアリ以上に。大八車に野菜や、商品を積み、幼い私も乗せ家族を守り、日本を豊かにするために生き抜いて来た。自分の幸せや望む人生を全て横に置きながら…。
戦争で被弾し焼けただれた工場の骨組み。今でもその姿が心に焼き付いている。自分や日本という国を豊かで幸せで、二度と戦争が起きない、安心安全な国にしたいと強く願いながら、自分も日本という国を幸せで豊かにしたいと夢膨らませながら、大人になっていった。
2.1965年(昭和40年)
春、合気道を見ずして、本部道場に入門。
東京・新宿の本部道場および直轄の新橋道場にて合気道を始める。
合気道という名前と開祖の演武の様子を隣人からちょっと聞いただけ。
その一年後に、突然、思い立ったように、本部道場の門を叩き、合気道を直接自分の目で見ないまま、入門手続きをした。自分でも信じられない行動だった。
本部道場への入門初日、開祖のお姿を目の当たりにする。「本来の人間の命そのままを顕わされていらっしゃる」と実感。人間のかたちに見えて、人間の存在を超えている、開祖の合気道の精神とお心に直接触れたような、生涯忘れられない深い感動を抱く。
その3年後、1968年(昭和43年)、東京日比谷公会堂において全日本合気道演舞大会が開催された。開祖が奉納された神楽舞は、まさに宇宙と開祖が一つに溶け合った世界そのもの。強い感銘を受ける。この頃から、合気道から世界の平和の道に向かって、私の新たな人生が始動する。
3.1966年(昭和41年)
大学に合気道部を創設、600人を超えるOBたち、今も羽ばたく。
その年の初めに、二代道主・植芝吉祥丸先生、からのお薦めもあり、母校の埼玉大学に合気道部を創設。しかし、集まった仲間に合気道経験者はおらず、日々の稽古は私の指導のもとで行われた。
創設当時は、強さを意識した、かなり荒っぽい稽古だった。私だけ怪我をせず、相手には怪我をさせっ放し。笑えて笑えない、当時のエピソードたくさんあり。
創設以来今まで、小林保雄師範には、熱く楽しくハードなご指導を仰ぎ、現道主・植芝守央先生には、いつも温かく見守り続けて頂いている。現道主も小林師範も、合気道の技の基本だけでなく、人と人が触れ合う基本を、今でも大切にしておられる。
また、本部直轄の新橋道場で、毎日稽古、ご指導いただいた増田誠寿朗師範、小出武夫師範には、大学での稽古期間もその後も、いつも私たちを支えて頂いた。
私の同期の石垣晴夫師範は、今も現役で、卒業生たちに、合気道の指導プラス人生支援をされている。そのお陰や、多くの方々の善意厚意で、すでに、600名を超えるOB・OGが合気道部を卒業している。彼らは現在も国内国外各地で、合気道の指導普及に力を注いでいる。
その合気道の仲間たちが築き、広めて来た合気道の世界に、合気道本来の精神を、あらためて注いで行くのが、私の大事な役目だと、勝手に認識している。押し付けにならないように、みんなに寄り添い、合気道の技の基本と精神を大切に、率直に伝えたいと思っている。
4.1969年(昭和44年)
春、アメリカへ行かず、武人と社会人の両立を目指す。
大学卒業前に、本部道場のある師範から、一緒にアメリカでの合気道の指導普及のお誘いを頂いた。しかし、当時の私は、本当に望む人生を歩むためには、地に足のついた社会経験をしっかり積むことが必要だと、痛感していた。
そして、社会人としての生活が始まる。畳の上の稽古以上に、日常生活のすべてが合気道、「武日一如」がしっかり身につくよう全力を注いだ。
日々、商社マンとして仕事に励みながら、合気道の稽古・鍛錬も欠かさず行い、さらに、その他の武術や武道についての修練も重ねた。合気道の段位を超えた武人として、また社会人として、真剣勝負の日々が、ずっと続いた。今も、一日一日を大切に、一瞬一瞬をたのしみながら、目の前に全身全霊を注いでいる。
1971年(昭和46年)、25歳のある日、渋谷の書店で五井昌久先生のご著書に出会う。五井先生は、世界平和の祈りの提唱者。そして、植芝盛平先生と五井昌久先生は、お互いに肝胆照らす仲。
五井先生のご著書を開いた時、『世界人類が平和でありますように』という言葉が、文字の方から光を放つように私の中に飛び込んできた。その瞬間、『今まで自分が人生で求めてきたものは、これだ!』と直観した。
同時に、『合気道』と『世界平和』が車の両輪のように、どちらも地球と人類の真の安寧を実現するために大事な役割を担っている。…と、はっきりと私の中で覚知できた。
それ以来、『合気道と世界平和』が、より明確に私の人生の指針となっている。
先述のように、植芝盛平先生と五井昌久先生は、お互いに肝胆照らす仲。その神縁を私は後で知った。お二人の不思議な出会いのエピソードなど、「武産合氣」の本のなかにも掲載されている。私のプロフィールの追記としても、いずれ抜粋紹介したいと考えている。
植芝先生と五井先生、お二人とも、私の生涯を通してだけでなく、合気道人誰もがこの世に生まれた天意を完うする上で、不可欠な存在と私は受け止めている。
5.1980年(昭和55年)
新天地、北海道に移住、すべてゼロからのスタートへ。
思わぬ縁で北海道に生活拠点を移してからも、社会人としての生活と合気道の稽古指導を両立し、ずっと「武日一如」を実践し続けている。決して容易な歩みではなかったが、その分、多くの貴重な経験・体験を積むことが出来、今に、すべてに活かされていると確信している。
30年以上、国や自治体、研究機関などの広報の仕事に携わってきた。日本という国が国民が、地域が人々が、表面的に望んでいることと、心の底で願っていることとの間にある大きなギャップに気付き、それを埋めて行くことも、私の大事な役目の一つであると受け止めるようになった。
北海道という日本の最北端の、日本としては広大なこの地は、物質だけでなく心の豊かさが価値をもつ地域社会となりうる大きな可能性を秘めている。未だ手付かずの広大な大地があること。経済発展が、日本の平均値より遅れていること。そのことが、北海道にとって良かったかも知れない。
現在、SDGsをはじめとして、世界全体が、経済的成長を最優先する生き方や価値観から、地球全体の持続的な環境づくりや生き方、価値観にシフトしつつある。
このような変化の中で、日本および世界のお手本となれるように、北海道の未来づくり構想のお手伝いを、今はボランティアで続けている。その一環として、産学官連携を推進する役割もつとめてきた。これからも地域をそっと支える現代の彦左衛門(サポーター、田舎武士、天下のご意見番)の役を静かに担いたい。
また、武人としては、強く美しい合気道の体技の普及と同時に、合気道の精神を基にして、世界の平和を祈り印を組むことを実践。その経験・体感で得た確信を、合気道を通してより多くの人々にお伝えすることで、平和実現の道を拓き続けている。
このことが、他の合気道に関わる方々と少し異なる私の個性になっているのかも知れない。 そのような表現の多様性を認め合いながら、共に合気道の普及発展に力を合わせていきたいと願っている。
6.1992年(平成4年)
公式訪問から始まり、ロシア各地との指導交流、今も続く。
ソ連が崩壊し、ロシアが誕生した翌年にあたる1992年(平成4年)、ロシア・シベリア地区、ノボシビルスク市で交流使節団として、初めて合気道を披露。
スポーツ格闘技などのメダリストやチャンピオンなど体力、体格に秀でたロシア人たちが参加。感動を呼んだ。強面で、素朴で、あったかい、ロシアの友人たちの素顔に出会えた。
この時の参加者たちの支援を受けて、ロシアでの合気道の指導及び組織作りの支援を開始する。ロシアの合気道の友人たちを、日本へ招いての指導交流も始まる。
その後30年以上にわたり年に2回、60回近くロシア各地を訪れて来た。はにかみながらも、心は深く通い合うロシアの友人たち。ずっと彼らの心の平和を祈りつづけている。
コロナ感染が拡大してから、ロシア現地での指導交流が途絶え、さらに現在は、戦争により、日本との直接の交流が困難な状況が続いている。そのような厳しい環境の中にありながら、ロシアの友人たちは、お互いの交流を今まで以上に深めている。
私の友人であるロシア人指導者は、ロシア極東からシベリア、そして、モスクワ、サンクトペ
テルブルクなどに出向き、積極的に畳の上の稽古を通して、お互いの絆を深めている。合気道家族はどんな環境でも一つに溶け合っている、という事実がそこにある。
ロシアの友人たちは、合気道の動きや技については、他の国々の人々以上に、基本を大切にし、基本に基づいた技の稽古を地道に続けている。稽古の質も量も充分に積み上げている。
いつも、とても誠実に真摯に合気道と向き合い、合気道の深い精神性と向き合っている。彼らに、世界平和の祈りを、また、さまざまな印を伝え続けて来た。それを素直に受け容れ、実践実行している。自分の幸せと同時に人類の平和を望んでいる。嬉しくてありがたい。
ロシアとの深い交流の絆は30年以上におよぶが、その間に、何人かのロシアの友人たちは、私の合気道へ思いとは別な道を選び、離れて行った。その時は辛かった。
そういう体験を超えて醸成された多くの絆が広がり、アメリカ、ヨーロッパ、アジアなど、世界各地で、稽古の交流、平和の交流へとつながっている。お互いを深く理解し、心といのちが通いあう友が世界中に存在している。これが天から授かった宝でもある。
7.1993年(平成5年)
AIPACEC創設。合気道と平和の理念で世界と交流深める。
現・合気道国際平和文化交流倶楽部(AIPACEC)(旧、北海道国際合気道協会)。
AIPACECは、「合気道と世界平和」をテーマに、国や文化の違いを超えた家族的な交流を目指し、合気道の技の基本を真剣に学び、たのしみながら、開祖の平和精神を紐解く役目を担っている。この活動を、私の身近な合気道の友人や国内外の親しい友人たちが、交流の舞台を整えるように、いつも支えてくださっている。
もう20年、高知県合気道連盟の主催の講習会が、進化しながら続いている。国内を含め、世界各国各地の合気道関連団体や道場でも、毎年、定期、不定期な私の指導交流が、真剣にあったかく繰り返されている。心を一つにしながら、稽古も歓談歓食もたのしんでいる。
最近は特に合気道や武道の指導者に向けて、技だけでなく精神も磨き合う稽古を、マンツーマンで行うように心掛けている。技の本質も、合気道の深い精神性を伝えることは、そう簡単ではないので、合気道の本来の目的を伝えるメッセージの発信力も、心を込めて磨きを掛けている。
海外での指導交流地域。
現在までに、日本各地、および海外では、ロシア各地(サハリン、ハバロフスク、ウラジオストク、コムサムール、ブラゴベチェンスク、ノボシビルスク、シベリア各地、サンクトペテルブルク、モスクワ等)、ヨーロッパ(オーストリア、ウクライナ、リトアニア、ポーランド、ベラルーシ、ハンガリー、チェコ等)、アジア(上海、香港、台湾)アメリカ各地(シアトル、モンタナ、ワシントンD.C.、グアム)、カナダなどで指導、交流がある。
A&Pの活動。
2024年迄に、それまでの合気道の道場での指導を引退し、AIPACECの直接関連団体として、 A&P合気道平和塾を新たに開設。A&Pは、Aikido&Peaceの略称。
公共の施設を活用し、少人数での個別指導を行う。塾の運営、稽古、外へのメッセージの発信など、稽古に参加する友人たちが、それぞれの個性と役割で支えてくださっている。
A&Pの理念に賛同頂いた各地の道場の方々とともに、健康を大切に、合気道の基本の動きや技を掘り下げ、学び合っている。合気道の精神を大切にし、平和の印も一緒に組み続けている。さらに、本州に拠点を置くA&P石垣道場(本部)やその関連道場との交流、連携も深めている。
特筆の一つは、合気道のバイブル書と言われる『武産合氣』(高橋英雄著、白光出版)を完全デジタルデータ化していること。必要に応じて、開祖口述のお言葉を多くの方々にお伝えできるようにファイルしている。今回のプロフィールの中でも、そのファイルから、抜粋掲載している。実は、この『武産合氣』が出版されるきっかけを作った一人が、私。
8.2000年(平成12年)
公的各種団体との協働交流、他分野との連携を広げる。
札幌市の教育施設、女性センター、北海道警察との連携で、護身術などの指導。でも、護身術など使わずに安全に過ごすのが何より。
文科省主催の日本文化伝承授業での中学生への指導。学内での合気道の指導者の育成が大きな課題であることを痛感した。
五井平和財団との連携、JICAの海外からの研修生への指導稽古、JICA海外協力隊メンバーへの支援など、世界との繋がりを持つ団体との結びつきを深め大切にしている。
2000年の夏、(公財)五井平和財団の2000年祭の特別イベントが、日本武道館で開催された。120ヵ国近くにおよぶ世界各国の駐日大使公使や関係者にご隣席いただく中、日本文化の象徴の一つとして、合気道が紹介され、守央道主のおおらかで、力強く、美しい演武が披露された。ありがたいことに、その準備・裏方役を、私たち合気道と平和を祈る仲間たちが担うことになった。
この2000年祭では、合気道の他に、日本を代表して2つの伝統文化が紹介された。一つは、茶道、裏千家の当時の千宗室家元(現千元室)様が、一万人が見守る中で、厳かに静かに茶道の一つ一つの動きを見事に描き出されていた。静寂の中に、会場いっぱいに広がる『静かな動』がある。茶道に疎い私には、これ以上の表現が思い浮かばない。
もう一つは、1000年以上の歴史を持つ雅楽。雅楽については、私はさほど詳しくはないが、日本笛と鼓の演奏など。当時、演奏されたお二方は、人間国宝に認定されている。(生憎、お二方のお名前は不明。) 鼓を肩にのせ、手で「ポーン」と打たれた。その一音は、武道館の会場の空間をつけ抜けて、宇宙の彼方まで届くようで、今でも、私の心の中で『ポーン』と響き続けている。これを音霊というのだろうか…。
話しは戻り、今までの各種団体とのコラボ活動を通して合気道の新たな方向性を見出す事ができた。単なる武道としての合気道ではなく、心と体が一体となった健康づくり、子供たちの発育・教育の支援、未来を担う若い世代との交流なども、大切であると気づいた。今は生涯教育や健康寿命を伸ばす取り組みも視野に入れ、奥行きのある、幅の広い武道としての発展の可能性も模索している。
9.2001年(平成13年)
東欧ヨーロッパ訪問。リトアニアでも、精神的にも深い交流が続いている。
2000年(平和12年)前後から、ロシア各地での私の合気道セミナーには、ロシア以外の出身者や、近隣の国々からの合気道の指導者たちが参加するようになった。ウクライナ、ベラルーシ、リトアニアなどの国から。さらに、その指導者たちの縁で、ハンガリー、ポーランド、チェコ、オーストリアなども訪問し、指導交流を行っている。
その際、合気道の稽古と食事や会話などで、お互いの心の交流を深めてきた。同時に、可能な限り、合気道の技の妙味に加えて、合気道の平和精神に基づいた、祈りや印を一緒に伝え続けてきている。
現在、ウクライナは戦禍の中にあり、いのちの危険にさらされている。リトアニアは国際関係の中で、微妙な立場に置かれている。そのような環境の中でも、合気道の友人たちは、私の伝えた合気道の平和精神を全て理解している。
ロシアやアメリカの友人たちと同様に、今も、世界平和を祈り印を組み続けている。その他にも、私が知らないだけで、他にもずっと祈り印を組み続けている友人たちが存在することも、耳にしている。
10.2008年(平成20年)
秋、リスク承知で再度ウクライナへ、友人たちの安否確認。
ロシアでの指導の後、モスクワ経由でリトアニア共和国、ウクライナ共和国にて、さらに、他の東欧や西欧各地域での合気道の指導交流セミナーを行う。その後も、数回に渡り訪問する。ほぼ同時期に、ウクライナへも数回訪問している。
このセミナーに合わせ、私の合気道に対する考え方を『合気道に何を求めるか。』というタイトルの小冊子にまとめ、ロシア語にも翻訳し、ロシア・ウクライナへ持参した。
ウクライナのセミナーでは、合気道の指導者が、この小冊子の全文をロシア語で読み上げると、多くの参加者の賛同を得た。そして一緒に世界の平和を祈り、印を組んだ。その時のウクライナの友人たちの祈りは真剣そのものだった。
その頃からすでに、不安定で緊迫したウクライナ情勢が、私の肌に直接伝わって来ていた。私は、日本や海外の友人たちから、ウクライナに入ることを、絶対に止めるよう、忠告された。それでも、危険を覚悟で、再度ウクライナに入った。ウクライナの友人たちと心を共にしたいと思ったからである。そんな私の心を、ロシアの友人たちも理解し、支えてくれた。今でも、ウクライナとロシアの合気道には国境は無い。
ウクライナの友人たちは、今も自国と世界の平和を祈り続けている。決して、戦争状態にある相手国を批判非難する言葉は、彼らからは聞こえてこない。一方で、ロシアの友人たちも、ウクライナを批判するようなことは無い。元々とても親しい家族のような間柄だ。そうでなくとも、合気道の世界では皆一つの大家族のように交流している。2019年世界的なコロナウィルス感染症の蔓延に伴い、道場での指導に代えて、合気道の基本となる動きを身につけるリモート稽古を開始する。現在は、道場での稽古に加えて、リモート稽古も継続している。また、いつでも、どこでも無理なく体を動かすことが出来るように、健康体操と合気道の基本を織り込んだ動画も配信している。
11.2016年(平成28年)
6月、アメリカの友人たちを初めて訪問。
友人たちの要請に応えて、アメリカへ。シアトル、ミズーラ、ワシントンD.C.などの各地で、合気道の指導交流を行う。その後、何度かアメリカを訪れ、今秋も訪問計画中。指導者に向けて、合気道の基本の技の妙味を愉しみながら、世界の平和を祈り、平和の印を伝えることとに、さらなる確信を持って進めている。
2022年8月にアメリカを訪れた際に、私のスマートフォンで撮影した動画や写真をもとに『アメリカ紀行』のビデオ動画を作成。この動画の中に、アメリカの友人たちとの、合気道の稽古や日常の触れ合いが、そのまま映っている。すべてが自然体で深い味わいが、たのしめる🎵
合気道の世界では、本当に、国や民族を超えて、合気道に関わるみんなが一つの家族なんだと、この映像は無言で語っている。家族のことも地球の平和のことも一緒に考えている。みんなの幸せと平和を願い、その想いを祈りと印に込めていることが、生活に溶け込むように、映っている。一度ご覧あれ。
12.2019年(令和元年)
春、オンライン稽古開始。健康づくりも加味し、可能性の幅を広げる。
世界的なコロナウィルス感染症の蔓延に伴い、道場での稽古に代え、リモート稽古を開始。合気道の基本の動きに加えて、心と体の生涯健康づくりのための合気体操ストレッチを取り入れた。合気道の『氣』が、いのちの永遠性にも繋がることを意識して。
現在は、道場での稽古に加え、リモート稽古も継続している。
生涯を健康に送るための心身づくりの大切さを痛感し、道場での稽古にも、リモート稽古で培った健康体操を取り入れている。
また、いつでも、どこでも無理なく体を動かせるように、健康体操と合気道の基本を織り込んだ自習用のビデオ動画も配信している。
13.2022年(令和4年)
合気道の平和精神を、さらに明確に伝える動きを、計画展開中。
これまで以上に、合気道の平和の心を大切に。この平和精神が今の地球や人類の未来を実現する上で、何よりも大切と確信し、今まで以上に心を込めて、すべての可能性を行動に移したいと思っている。
コロナウィルスの規制緩和にともない、国内各地での稽古交流を再開し、徐々に拡大している。北海道をはじめ、東京・埼玉・千葉・神奈川・富士などの東日本で。四国・大阪などの西日本で。
2022年秋には、アメリカなどでの交流を再開。
2024年(令和6年)春から秋にかけて、再びアメリカ各地への訪問を予定。また、リトアニアなどのバルト三国、東欧、北欧などへの訪問を予定し、準備を進めている。機会があれば、台湾訪問も検討。平和の道を拓く合気道を伝えたい。
今回、リトアニアを始め、バルト三国、東欧、北欧を訪問する計画のきっかけとなったのは、リトアニアの友人からの要請によるものである。私が海外で合気道の指導交流する一番大事な本来の目的を、充分理解してくださった上での、リトアニア訪問となる。地球や人類の幸せと平和のために、私と一緒にできることを実践実行したいと強く願っておられる。
一人の力では、たいしたことはできない。見えない大きな力を含めて、周囲の人々のご支援とご協力を頂かなければ、私はただ単に畳の上で合気道の技を披露するだけの存在でしかない。その畳の上で学ぶ事はとても大きい。だが、その学んだことを、地球と人類の幸せと平和のためにお役に立てるには、天と地の叡智を結集することが、何より大切だと思っている。
@おわりに
「みんなひとつ」
稽古、祈り、印。
合気道は、自分と人類すべての本来のいのちが、永遠のいのちとして一つであり、肉体の命が消えても尚、生き続けるいのちであると、実感する道。
合気道は、全人類が一つに溶け合う家族だと、実感できる道。
そう私たちは確信して、日々の稽古を、日常の生活を歩んでいます。
~世界平和の祈りと神聖に還る印(IN)を添えて~
本来の合気道の技は、言葉で伝えなくとも、その動きを素直に見て汲み取ることができます。
ヨガのムードラに似た神聖復活の印は、呼吸法と手の動きで表現します。印をイメージしただけでも、真の平和の祈りを響かせることができる、まさに言葉を超えた世界共通語であると思います。
この合気道のいのちの世界に、
平和の祈りと印を乗せて、多くの仲間と共感し、
日々の稽古を楽しみながら、平和の礎を築き、
幸せの扉を開き続けて行きたい、
そう希求しています。
私たちがみんな一つで幸せでありますように
世界人類が平和でありますように
~ようこそ愛気🎵~
ピース合気道メンバー
今村樹憲